2011.3.11 地震にあって@千葉・幕張
〜これは訓練ではない〜


東京近郊で多くの方が同じような体験をしたと思いますし、もっとひどい目にあわれた方もいるわけですが、
自分の体験を記憶が新しいうちに残すものです。
とりあえず写真だけでも載せます。
(2011.3.12)

それにしても帰宅して一日、驚いたのは、地元との、地震にへの感覚の違い。
随所で通常時とは違うところもみられましたが…コンビニ品薄の張り紙だとか…
そして、地域によりますが、ほとんどがいつもと変わらない風景。
サルさんは、「東京はまるで変わらないね、関係ないみたいだねー」と
批判するのではなくただつぶやいていました。
私も正直、こんなに落ち着いているものなのか、と、驚きました。

サルさんはともかく、私がなぜそう思ったかと考えるに、
たまたま私が地元小学校に避難し、一夜を明かしたからかもしれないと思いました。
そのことだけでも、人の意識が変わるものだと思い知ったのです。
ですので、東北地方の人達とは比べ物になりませんが、私の経験が少しでも多くの人と
共有できれば…との願いでここに記すものです。
(2011.3.13)


更新、修正があればtwitterにてお知らせ。


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幕張メッセ
 ↓
海浜幕張駅
 ↓
美浜打瀬小学校
 ↓
幕張駅へ〜そして帰宅


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「これは訓練ではない」の前フリとして。」
実は私の職場のオフィスビル、2日前の水曜日に、毎年2回行われる避難訓練をし
たばかりだったのだ!
訓練は14時半からだったけど、11時45分ごろ、震度3の地震。
とはいえ高層ビルの30階近くだったので、かなり長時間ゆられており、船酔いのように気持ち悪かった。
みんなして「今訓練しちゃえばいいのにネ」などとキャッキャと話していたのだが…

訓練はいつも通り、毎回あざやかな陣頭指揮をとるA氏のおかげでさくさくと進行。
前回の訓練でも「Aさんがいないとうちら逃げられないよねぇ〜」と半分本気で笑っていた。
いつものように、約30階にあるオフィスから、ヘルメットをかぶって非常階段をドコドコ降りていく…
そしていつものように、終了後は1階のカフェで飲み物をテイクアウトして、仕事に戻った。

その二日後に、まさか…。



幕張メッセ

この日私は、朝病院へいくついでに有休をとって、幕張メッセで行われたドラッグストアショーに行っていた。写真をとって、あれこれ見て回って、楽しいひととき。
さて、そろそろ残りをさっと回って、出店で遅い昼ごはんでも食べますか…と、興和株式会社(あのケロちゃんの会社よ)のブースへ行った時。

そこではプラカードを持っていた興和のお兄さんと、年配の女性お二人方が何やら話していた。
「あれ?地震」「そうね、ゆれてるわよ」と、よくある会話。」
しかしそれが、よくあるものではなくなってきた。
揺れは次第にひどくなり、グラグラと物が揺れる音がし、立っていられない。
さきほどまでスピーチをしていたコンパニオンが「みなさんしゃがんてくださーい!」ととっさの指示。

 ←地震前の楽しそうな会場のようす…ああ。

揺れはどれぐらいつづいたろう、1,2分?お兄さんと年配の女性二人と、私4人がかたまってしゃがむ。
お兄さんをはじめ、そこここで「落ち着いてください、しゃがんでください!」との呼び声。
私はとっさにプラカードをお兄さんの頭上にかぶせるが、今思えばそれに何の意味があるのか…
それより、この建物が丈夫であろうことはわかるのだが、さきほどから揺れている照明が落ちてきやしないかと、つい天井が気になる。
そのうちようやく、揺れがおさまって、騒然、呆然。
私は、関係者のブースへすっとんでいった。そちらへは普段通路が開かれているが、さすがにシャッターが閉まり、通用口しか開いていなかった。

  

あちらこちらのブースでモノが散乱し、どんどん人が退出している。
そのうち、顔だけは見たことがある、会社関係の男性W氏をみつけ、一緒に建物の外へと裏口に出る。
そこでもたくさんの人がおり、知った顔を探している。また、めいめいに携帯で連絡を取ろうとするが、すぐ切断され、かけることができない。
落ち着いたつもりだったが、ダイヤルする指がまだ震えている。
サルさんはどうしたろう、それに会社の人達は…
おとといの震度3でさえあれだけ揺れたのだから、相当怖いのではないか。
よりによって今日は、避難訓練の指揮者のAさんが有休だから、なおさら…。



私とW氏は一度中に入ろうとしたが、続々と人が退出しているのをみて、建物前の広場に出てみた。
そこでは大勢の人達が身内を探そうとしているが、この人数ではどうにもこうにも。
階段や歩道のブロックは破損し、水が湧き出している。

  

 そのうちまた、立っているのが困難な余震がやってき、ますます不安に。
 ←大きな余震直後、人々はやや動揺。

 ところでW氏は、日帰り出張で神戸から来ていたとのことで、まず交通機関を心配していた。
 そこで私はW氏と別れ、ロッカーに預けていた荷物を取りだし、出ようとしたところ、
 係員たちがイベントの中止と、場内からの退出命令を出していた。
 周りをきょろきょろしながらも、とりあえず京葉線海浜幕張駅まで向かうことにした。


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海浜幕張駅

  

駅へ向かう途中の道路は、さすが埋立地、水と砂が湧き出し、ロータリーや歩道は浜辺のように。

海浜幕張駅の南口にたどりついたものの、やはり運休、駅構内への立ち入りもできなかった。
駅員がメガホンで、余震が来ると屋根が崩れるので、屋根の下に入らないよう注意を促していた。
しかし、少しでもメガホンの向きが違うと、何を言っているのか聞こえない。
これからどうしよう、ともかく体力を温存しようかとタクシーロータリーわきの植え込みのブロックに腰をかけた。
たまたまそのそばにいた年配の女性、お名前もきかなかったのでAさんBさんとするが、お二人に話しかける。

そこで、目の前にタクシー待ちの列があったので、とりあえず3人で並んでみたが、さっぱり来ない…
列には数十人ほど並んでおり、タクシーはほとんどまったく来ない。この分ならいつ乗れるかわからない。
そういえば先ほどバスが走っているのが見える。バスにあたろう。
というわけで、AさんBさんとともに、バス乗り場を目指すが、場所がよくわからない。
地図をみてようやく、バスロータリーがある駅の北口へ。
…の前に、公衆便所で用をたす。水が流れる個室と流れないところがある。

バスに期待をかけて運転手さんにきいてみたが、道路に段差があって走れないんだそう。
しかし、バスの中に乗っている人な何人か。
中にいたサラリーマン男性にきいてみると、バスは動かないが、中で休んでいていいとのこと。
どうせ動けないなら、情報が入るまでここで待とう、と3人で中に入って待つ。
これが本当に良かったと思う。外は寒く、小雨もパラパラ降る時も。これで体力を消耗せず済んだ。
それにしても、中にはいろんな人がいた。先のサラリーマン男性も、ドラッグストアショーにきていたらしい。
その方は会社の人に車で迎えに来てもらうよう電話していたが、下道はぐちゃぐちゃ…つまり、大変混雑していたとのこと。
そのうち、若いサラリーマンカップルも入ってきたが、男性の方がバスの外に赤ん坊連れの女性を見つけ、中に招いた。連れの女性にもいたく気を使っていたので、守るものを得て目覚めたっていうクチだろうか。こういうときに、さっとこういう行動ができる人が日本男性の中にいるってことが素晴らしい。
そうかと思えば、ゲームに没入しながらバスに乗り込み、席が空くと周りも見ずにそそくさと座りこむ青年も。

途中、運転手さんがエンジンをかけて暖房をつけてくれた。
赤ん坊連れの女性はママ友同志の二人連れで、赤ん坊たちは何も分からずキョトンとしていて、愛らしい…お母さんは心配でしょうがなかったろうにね。
なお、AさんとBさんは、幕張メッセの家具のバーゲンにきていたのだそう。
地震が来たときは、買物も終えて、外のカフェテリアかレストランにいたそうだが、
店の中で「これから30秒後に地震が来ます!」というアナウンスがあったんだって!メッセにはそんなの、なかったな〜


とにかく…情報がない。どうすればいいか、わからない。ヘタに動くよりは、待つしかない。
しかしこのころ、ようやくサルさんや弟と連絡がついた。電話よりメールの方がつながりやすかった。
とりあえず、みんな無事だとわかってひと安心。

バスの車窓から周りを見渡すと、ビル1階の飲食店の扉が壊れていたり。
2階にあるファミレスに人が入っているのも見える。

私は、実家の本八幡まで、何時間かかるかわからないが徒歩で帰宅することも覚悟した。
が、徒歩での帰宅は、道がわからないうえ電気も道路状況もわからない中、無理に動くのはうまくない、と判断。
バスに一晩居させてもらえるなら車中一泊をと思った。深夜バスだと思えば、このくらい。

いずれにしろ食料と水は確保しておいた方がいいだろうか、と思ったが、サラリーマン男性によると、コンビニは早々にみてみたが、すべて閉まっているとのことだった。
とりあえず、ドラッグストアショーでもらったスナックやお茶の試供品がある。万が一のときにはこれでしのげばよい。しかし、これがこんな風に非常の助けになるとは…。

バスには2時間ほどいただろうか?暗くなってしまってから、幕張駅へのバスが出ると知らされたが、そちらへいっても電車が動いていなければ意味がない。
しかしバスもそのうち閉めてしまうかもしれない、という。どうするか。
それならバスを追い出されるまで、と粘っていると、そのうち警察官が来て、地元の小学校の体育館が避難所になったというので、場所をきき、私とAさん、Bさんはそちらへいくことにした。
同じくバスで待機していたお嬢さん二人連れも一緒にいくことに。
彼女らは、千葉の先の方に住んでおり、高校卒業したばかりだが、たまたま免許の試験を受けに来たところだったという。
5人でバスを降り、駅前の公衆便所で用を足し、小学校へ。
ホテルオークラの前をとおり、広い道をひたすら歩いてゆく。

道中、一緒になったサラリーマン男性から、津波が10メートルもあったそうだときいて驚く。
それに宿を確保しようとしたがどこも予約でいっぱいだとのこと。では、W氏はどうしたろうか。
また、みんなで「小学校の体育館に避難するなんていうのは、よくニュースでは見ていたけど、まさか自分がそうするとは思わなかった」と口々に言っていた。

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美浜打瀬(みはまうたせ)小学校

実は、避難場所を知らせに来たお巡りさんが早口で、その小学校の名前が正確に聞き取れなかったのだが…
まあそれでも、道も単純そうだし、そんなにあちこちに小学校があるわけでもないだろう、と、たかをくくっていた。
が、ここかと訪れた小学校で、宿直の先生方に「ええっ?!」と驚かれてしまった。驚いたのはこっちである。
どうやら避難場所になったのは、少し離れたところにある小学校らしい…それも、2つあるそうで…
なに、この近くに小学校が3つもあるの!?
あとで地図を見てみたら、打瀬小学校、美浜打瀬小学校、海浜打瀬小学校…が近隣に集中しているのでした。
途中で場所が変更になったのだとか、体育館が足りないようなら
他の小学校も避難場所になるかもしれないといっていたが、どうなったか。

  お湯を入れて、10分、20分のおかゆとアルファ米の非常食で、とてもおいしかった。また、お茶やお菓子、赤ちゃん用の粉ミルクにおむつ、カンパンも出してもらえました。
 

私達が小学校についたころは100人もいなかったと思うが、次第に人数が増えていき、最終的に2〜300人にはなったのではなかろうか。
卒業式の飾り付けや児童たちの似顔絵が、状況にはそぐわないが心を和ませる気がした。
さっそくマットをしき、非常食をいただく。ありがたかったなー!

さらにはネットが見られるようにPCまで用意してもらっていました!
が、mixiやtwitterに接続できず。支度をしてくれていた男の先生にきくと、やはり子供が見ないようにとフィルタリングをがっちりしているそうでした。
まあ、そこまで贅沢は申しません。が、なんだかおかしかったなぁ〜。

避難してきた人の中には近所のマンションの人も。
話によると、同じマンションでも1階はたいしたことはなかったが、
9階に住んでいた人はガラスの破片もとびちり、エアコンまで外れてしまったそうだ!

ところでこの時点でドラッグストアショーのサイトを見ると、12日昼12時から開催、なんて書いてあったが…すごい根性だなあ、でも誰が行くのよん。
また、パソコン置場のそばに若いサラリーマン男性3人組がいたが、パソコンの使い方が分からない人にこまごまと教えてあげたりしていた。
私もちゃっかり、携帯の充電ツールを貸してもらっちゃいました。

というのは、私の携帯はすぐ電源がなくなってしまう(写真を数枚撮っただけで赤信号に)ので。
無駄な連絡をしないにしても、いざというときに使えないようでは困る。
なので周りへの連絡は、携帯メールでtwitterに状況を投稿。twitterもmixiもしていない人には、別途メールの一括送信をした。

あとは巨大ストーブや、毛布も出してもらい。毛布は始め限りがあったのだけど、はじめは小さい子供を連れた人、その次は女性、その次は年配者…
男性までは回らないだろうかと心配したが、トラックで追加分を100枚取りに行って来てくれたので、もれなく全員に、毛布が行き渡った。

私達5人は、早めに体育館に入ったので人数分のマットも敷けて、横になって眠れたので良かった。後から来た人たちは、床に何か紙を敷いて座るだけの人もいたのだ。

非常食をいただいて、みんなでしゃべって、そのうち疲れて、結局22時ごろには寝てしまった。

美浜打瀬小学校および地元の関係者のみなさま、ありがとうございましたー!

   

寝についてからもたびたび余震が起こり、何人かの携帯の緊急エリアメールがあちこちでキュイキュイと音をたてていた。
しかしそれらは実際の余震とはまるで関係ないタイミングで…。


寝ているうちに、徐々に電車が復旧したそうだ。
地下鉄は昨夜のうちに一部再開したって?すごいねぇ。


珍しく早く寝たせいか、4時半には目が覚めた。
それからはウトウト、1時間おきに目が覚めていた。

6時ごろ起きてみれば、入り口には対策本部らしいデスクがしつらえられており、
ラジオや情報貼りだしもされていた。区の職員さんのようだった。
総武線は7時に運転再開見込み、総武線快速は時間未定とのことだったので、
幕張駅までいくことにした。

途中までの道案内をしてくれるというので、そこまで歩く人は
7時に集合し、体育館を後にした。
私はAさん、Bさんと3人で出て、お嬢さん2人は後に残った。


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幕張駅へ〜そして帰宅

   

新しいきれいな建物、きれいな街だが、道路はところどころボコボコになっている。
幕張駅に近づくにつれ、液状化現象や道路の破損もみられなくなっていった。
駅近くのコンビニもスーパーもカフェも、開いていたし…

 

小学校から駅までは、30分ときかされていたが結局40分ちょっとかかったろうか。
ついたらついたで、当然入場制限をしており、外で1時間くらい待ったと思う。
そのうち、お嬢さん2人が後からきて一緒に待っていたが、彼女たちは千葉方面なので、列に並ぶことなくホームに入れ、そのまま電車に乗れたようだ。

さんざん待って、初めて電車が滑り込んできたときは、ホームから歓声が上がっていた。
しかしなかなか電車は来ず、私達3人がホームに入ってからは1時間近く待ったかなあ。

ようやく電車が来たはいいが千葉駅発の電車は当然通勤電車並み。そこに、ギュウギュウ押し入る…もちろんそのときに乗れない人も出てくる…
総武線なんて毎朝こんなもんだが、それにしてもキ・ツ・イ…
乗り降りの際に、やはり倒れこむ人もいたし、降りる際に押す人、人が降りかけているのにおかまいなし乗りこんでくるヤツもいて。昨日の、母子に席を譲ったサラリーマンを思い出した。
平然と列に割り込む人もいたな。見た目で(ルックスではありません、人相です)、女子供を平気で押しのけるタイプと判断、魔除けオーラを発散(?)したらしばらくのち去って行きましたが。
といいつつ、私らもちょっとズルしたんですが、それは秘密です。
それはそうと、とっさの判断力や、非常時の人の行動に表れる性格というものについて思いを巡らす。


都心に近付くにつれ、電車内は空いていき、新宿駅では相当な猛攻を覚悟していたが、いつもより空いているくらいだったので拍子抜け。でもよかった…

あとは無事中野で降りました。
ピーコックやマックが既に営業していた。コンビニも。

中野駅では、ホーム建物の壁のペンキが少々はがれおちていました。

 

そして帰宅早々、日課のようなサルさんとのケンカ…これも平和な証拠?やれやれ。

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それにしても、先述のとおり「自分が小学校の体育館に避難するとは」…
自分がそうしてみて、色々と分かってくることもあるのだな、と今さらながら、改めて気付かされる。
また、都心の方が、私が想像していたよりはやく日常生活を取り戻しており、これは、都心にはそれほどダメージがなかったのかとか、あるいは、早く日常を取り戻すべくバランスをとろうとしている心理的作用なのか、とも思った。(んなこたないか)

また、地震翌12日、出社していた同僚にメールしてみたが、やはり相当揺れて、怖かったらしい。
が、皆さん無事だったようで安心した。

同じころ、善意のミャンマー人や、善意の親世代(というか親)からチェーンメールが回ってくる。
(あの、コスモ石油がどうとかいうやつですよ!)
マイミクさんのほうでも、受け取った人が何人かいた。
人の善意に付け込んで、こんなものをこの大事に作るとは、不謹慎であるばかりでなく、メールサーバに余計な負担をかけることにもなり、迷惑極まりない。
ただでさえtwitterでも救援を求めるツィートが回っているのに、それにすらガセが含まれているかと思ってしまう。
まさに不幸の手紙、である。受け取られた方は転送なさいませんように。

しかし復旧の早さにも、なんだかんだといって日本は底力のある国なのだと、晴れがましかった。
また、世界各国から援助の申し出があることも、感謝で胸がいっぱいになる。
それは、これまで日本が、他国が災害時に援助に向かっていたからでもあろう、と。
まさか誤解する人はいないだろうが、「援助したから援助されて当たり前」というのではない。
人の善意が、相手の善意を呼び起こし、連鎖していくのだろうかと思うと、素直に感動を覚えたのだ。

しかし、悲惨なニュースは続々と入ってくる…
あらためて、被災地の方々を思う。



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